日頃の他愛もない話


2024/9/9 徘徊か迷想か

 今日は、蛙の誕生日。女房蛙が外での夕食を提案してくれた。

 久しぶりに、とんかつ専門店に入って、” ○○とんかつセット”を、もちろんビールとともに注文し、

 みごとに完食。

 年寄りなのに美味しくいただけることに感謝しながらも、女房蛙も呆れ顔。

 蛙は、数年前に80才を超えた。男性高齢者の平均寿命も健康寿命も全うしたようだ。

 余命が何年かわからないが、今は生きている。ある統計によると、蛙の余命はほぼ7年らしい。

 この歳になると、体力が急に衰え、あちこち痛み出し、日頃の1日7000歩以上の目標歩数は

1日の限界値になり、階段の上り下りも相当厄介になってきている。

 ところが、何故か蛙の頭の中は、意識するしないに関わらずやけにいろんな思考が動き廻り、

それらが勝手に迷走しあるいは徘徊をはじめる。しかも、それらが手足などの身体の部分に、

あるいは、頭の他の部分に行動しろと指令する。一応身体はその指令に応えようとするが、

その準備に時間がかかる。どの指令に従うか判断に迷って動けない。どこからとなく別の指令が

動くなといってくることがあれば、身体が動けないと泣いているときもある。身体が動き始めても、

他の指令が入ると先の指令を忘れて新しい指令に従って動きはじようとする。時には何かやろうとして

エンジンキーを廻してもプスプスというばかりでエンジンがかかららず、かかっても

サイドブレーキを外しアクセルを踏もうとしない。動き始めても、ただ操られるようにふらふらと。

 それは、何の目的もなく、行き当たりばったりに見えるに違いない。ただウロウロしているとしか

見えないかもしれない。それはもうはたから見れば認知症患者の徘徊かも知れない・・ふとそう思う。


2024/9/8 優先座席

 今日、所用で宝塚までJRで出かけた。午前10時過ぎの快速車内は少しだが空席もある。

 優先座席の方をみると子供連れの男性が座っている反対側の座席が空いているようなので、ちょっと荷物もあるし、そちらの方へ向かうと、何と通路に向って足が4本出ている。傍に行くと、高校生らしい二人のジャージ姿が、二人用座席をそれぞれ一人づつ占領して寝そべっている。仕方なしに蛙は他の席に相席した。

 通勤時などは、お勤めでお疲れのサラリーマンをみると、彼らの世話になっている蛙などは、まだ少しな元気が残っているからと、一般座席に座ることを躊躇する。優先座席に彼らが座っていても何とも思わない。

 しかし、昼間で空いているとはいえ、高齢者や障害者が傍にきても気づかない風な彼らの態度には、少しムッとしたが、これは高齢者の身勝手かも・・・。そんな彼らも、次の駅に電車が着くと、誰も来ないかを?確かめるように首を持ち上げていたのはまあ救いか・・・と思ったら、どうも寝過ごさないように注意していたらしい(笑)。

 しかし、優先座席はどうして車両の端っこにあるの?優先座席は車両の真ん中にしたらどうかと思う。万座の注目の中では、座席を占領して寝そべるなど出来まい。


2023/9/24 散歩

  ー6000歩汗ばむ朝に秋の風ー

 久し振りに朝の散歩に出た。朝夕は少し涼しくなった。

 今日は、夏の散歩のときのように、帰宅後水シャワーを浴びる必要もなかろう。

 しかし、最近、家の中を歩くのも億劫で、何となくヨボヨボ、フラフラ歩くようになった気がする。夏バテかそれともやはり歳の所為か、2週間前に変えられたあの薬の所為か。まさか ここ3日間目標の歩数を大きく下回る2000歩程度しか歩いていないためか・・・老人は3日も歩かないと筋肉が落ちて元へ戻すのに苦労すると聞くから。

 でも散歩は楽しい。ときにきれいな日の出に出会い、面白い形の雲を見上げ、足元に見かけない小さな花をみつけてスマホのカメラを向ける。冬鳥の渡りが始まるといろいろな鳥と挨拶ができる。 ”今年も元気?”と 。以前はちょっと望遠の効くデジカメをもって出かけていたが、大きくて一眼のような形で少し重いので今はスマホのみだ。時には、歩いている間、展覧会に出す絵の構想を練ったりイメージ作りするのも楽しい。稀に、柄にもなく俳句や短歌を考えて指を折りながら歩くときもある。

 毎年秋になると、近くで公募展が開かれ、少し大きめの絵を数点描いて応募する。擬人化した蛙の風刺漫画を年に100コマ程度は日記代わりに描いているが、これはせいぜい10cm四方のまさに1コマ漫画だから、絵を描いているとは言えまい。だから、年に数枚は大きな絵を描いてみることにしている。今年も、9月の伊丹市展と宝塚の敬老の日のイベント”元気な長寿の仲間たち展” に、30号と10号の絵を出展したが、11月の宝塚市展と伊丹の働美展にも出展する予定だ。今年は、地球温暖化・気象異常・環境破壊を自分のテーマとして描くつもりでいたが、9月の出展作品もそのテ―マに沿ったものになった。ただ、伊丹の働美展には、” 花 ”という課題(自由課題も可)があり、今日の散歩でも、以下のようなイメージが浮かんでは消える。

  ー蓮池や蜘蛛の糸待つ老い蛙ー

  ー蓮池や見上げる空に蜘蛛の糸ー

  ー蓮池に釣られてかえる蜘蛛の糸ー

 何故芥川の” 蜘蛛の糸 ” をイメージしたのかはわからない。蜘蛛の糸は、宇宙エレベーターでもスターリンク衛星でもいいかな? もう一つは、かえるところも住みかえるところもなくなった蛙たちが、地球を脱出する宇宙船の窓から異常な地球を見ているイメージ。

 どちらのタイトルも " Earth of no return "かな。

 人間どもよ!環境破壊、争いなどにうつつを抜かしている時間はもうないんだよ。


2004/11/25 老いと尊厳 

 私(蛙)は、今、母の世話と相手を少ししながら、自分のままならないもどかしさと、無理やり押し付けられる介護行為(仮に我々やヘルパーが親切でやっているとしても)に、母はどう感じているのだろうかと、ふと思う。

 眠っているのに、いきなり耳元で“おはよう”、“おばあちゃん、起きてる?”と大きな声がし、あっち向け、こっち向けと転がされて着物を剥がれる。少し残った遠慮の気持ちもあって“痛い”と言いそびれているうちに車椅子に座らされ、食べ物を無理やりに口に入れられる。眠たいのに、食べた後だから暫く座っている方が良いと車椅子に傾いたまま座らされている。全くと言っていいほど筋肉のないお尻が痛いのにね。

 便意、尿意を訴えても、そのまましたら良いと言わる。自分でできない歯痒さと恥ずかしさを誰にもわかってもらえない。介護者の身勝手な手抜きじゃないのか?と思う。

 はじめは抵抗していた母も、最近は介護を黙って受け入れている。老いが進んだだけではなく、人間の誇りを傷つけられることに対して抵抗することを諦め、もう尊厳だとか誇りだとかは超越してしまったのだろうか。欲しくもないものを口に持ってこられているかも知れない、もう満腹なのに無理やり食べさせられているのかもわからない、下の世話も任せっぱなし。

 息子も娘も孫も、バーちゃん笑ったと、チョットしたことに一喜一憂して、語りかけてくるというより一方的に決めつけてくる。本当の気持ちをどうしてわかる?わかろうとしてくれている?

 母は、多分自分ではすべてわかっていて、今を生きていると思っている。

 今話していることが少し前のことか、ずぅーと前のことか、現在のことか、あるいは幻なのか知ったことではない。それは自己の世界の出来事としてすべて辻褄があっている。それなのに、それらのことを口にすると、ボケているからといい加減に対応される。

 とても今の蛙だったら耐えられない。人間の尊厳は何処まで保たれるべきなのか、人間は尊厳を無視されてまで生きるべきなのか・・・・。

 母がときどき、”りんごが食べたい”、”これ美味しい”というのを聞くと、何故かホッとする。稀に“世話をかけるのぉ”という一言が唯一母の尊厳と抵抗かも知れない。

福井から帰って)